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宮田さん お昼のデイプログラムの振り返り

2018年振り返り

 

 娘は人を極端に恐れる。ひといちばい敏感と言われる質らしい。「おそれ」という言葉も知らない幼少のうちに人中に置かれ、誰にも気づかれずに、彼女はそっと人との間にガラスの扉を閉めた。それでも人が容赦なく近づいてくるそのつど、こわいこわいと次の扉の奥に逃げ込み、そのたび狭まる居場所に合わせて、心を小さく縮こまらせていった。内からも外からも、扉を開く手順はわからなくなっていた。完璧主義のハードルを下げられれば楽になりそうだし長い目で、などと雑な考えで、だましだまし登校させていた。4年の夏、まったく外出ができなくなって、深刻さにやっと気づいた時、目の前にいながらお互いの声は届かなくなっていた。

 

 いえ、届けても届けても受け流され、頼みの母親すら一方的に修正してくるだけのやりとりに疲れ、敏感すぎる目と耳を閉ざしてしまったのだよね? 娘よ。

 

 はずれてはいないにしても浅い、そうした考えのなかで、私は途方にくれていた。今思えば、自分を責めるのが一番楽だったという側面もある。つい半年前までの話だから約2年。恥ずかしながら、「真面目に考え抜いているつもりがその程度」の親だった。

 

 5月の終わりに、FPを見つけた。学校にもフリースクールにも活路を見いだせない中、出会った先生は希望のにおいがした。娘が、差し出された手と握手をかわした。

 6月、順調にデイに参加し始めた。知らない駅まで、少しのアシストがあれば一人で出掛けて行くので驚いた。仲間との面白かった出来事を聞かせてもらうのがとても新鮮だった。快適ゾーン拡大のために、毎日の外出も心掛けるようになった。

 私自身の視界も変わった。非同期の発達、必要な栄養・・知らねばならないことが山をなす。メールを書くこと、返事を読み返すことで、不要な考えが除かれ、事態の解釈が修正されていく。0か100の思考、成功への恐れ・・、今まで漠然としていた娘の抱える困難に、一つずつ説明が与えられ、事が輪郭をあらわしてきた。SNSの記事もどれも人ごとでない。手掛かりを求めて次々読み進めた。コミュニティの初めての食事会には、娘を一人家に残して参加もした。先生に言われるまで、それもありだと思い付かなかった。後日、本人からは、あれで息をつけたと聞かされた。

 

 一か月の変貌ぶりに、そのうちきっと、娘にもいいことがある気がしてきて、ジェットコースターに乗せてやってくださいと、夏の始まり頃、改めて先生にお願いを伝えた。

 

 けれども、夏休み2か月のブランクのあと、娘のFPへの足は止まった。一度だけ、前泊からの宝篋山ハイキングで輝く笑顔を見せてくれたほかは、不参加のまま、最終日を過ごし、今またガラスの箱のなかにいる。合宿のため本部に向かう電車から逃げ降りた日の私のメールには、「何のために生まれてきたのでしょう、何もしないなんて生まれてきた意味がありません」と隠すことなく悔しさがつづられていた。娘の中で、時は4年の夏で止まったままだった。

 

 でも、参加していない日々からも、娘は前に進む力を受け取っている。毎日の外出の結果、近所になじみのカフェができ、高校生になったらバイトがしたいそうだ。仙台まで一人で父親を訪ね、私の誕生日には、弟と二人、町を歩き回ってケーキとディナー、そしてプレゼントまで用意してくれた。一度やめた習い事の助っ人を引き受けて、2月にはステージで楽器を演奏することにもしている。毎日パソコンで絵を描きつづけ、自己表現の模索もしている様子だ。その一端の4コマ漫画を、サイトに上げることもできた。いっしょに作ってみて、娘の中で、自分の面白いと思うものを自分の感性がよいと思う方法でアウトプットする作業が行われているのを感じて感動もした。先日は勉強もみんなに追いつけるようがんばると誓いを立てた。ちなみに誓いの相手はサンタさんで、動機の不純さが、いっそ健全と言えなくもない。嬉しいのは、それら日常の中で娘が愉快な話で私を笑わせてくれることだ。その中に、デイでの出来事もごく自然に含まれている。

 

 娘よ、君は進歩したよ。なぐさめじゃない。

 

 ところで、合宿から逃げた日の様子を先生に伝えた私のメールは、こんな言葉でしめくくった。

「壁の向こうに憧れるのも、時間がかかりましたが、実際に壁を登りはじめると、実にしんどいのだと、親子で実感しています。まあ、でも登らずにはいられないでしょう。ほんとうはチャレンジしたいともう気づいてしまったわけですから。」

 内実よりはだいぶ背伸びしたことを言ってしまった。が、言ったからには、ただただやらねばならない。

 

 さて、そういうわけで秋からFPのほうは、私の一人旅になっている。少し、旅の雑感を書こうと思う。

 

 私は、自身は人畜無害なほうなのだが、人とかかわるなら極端な人に翻弄されるのを好む。例えば王様が裸で歩いていたら、歓呼の声をあげて自分も脱ぎだす人が好きだ。だから、コミュサイトに足を踏み入れたときは大喜びした。だって、そこには王様もいないのに裸を謳歌している少年がいた。目を転じれば、お味噌に祈りをささげる子・・。文字までが自作で、たぶん「神様おいしくできますように」とお願いしているのであろうことしかわからないが、文明の誕生だなあと思った。味噌といえば、そう、落語「みそ豆」。英語での熱演であった。英語でなんといえばよいかわからず、黙っていたが、心では今も声援を送っている(「だいとうりょう!」って英語で何て言うのだろう。Hey, Mr. President では断じてないと思うが)。

 

    ここって愉快だ。

 

 そして誰より、デイで出会ったお仲間たちに。

 

 欠席の日に娘のことを考えてくれていたこと、前泊に付き合ってやってくれたこと、最後に一度だけ言葉にして誘ってくれたこと、心から感謝しています。あなた方のそれぞれの実感に基づく抑えた言葉は、娘の耳に深いいたわりをもって響いていました。本人が感謝を伝えられるのはまだ先になりそうですが、あなた方ならその日を、特に不思議と思わず受け止めてくれることと信じます。

 

 余談ですが、いつか娘が大きくなって、この世のまことの騎士の不在を嘆く日があれば、「あんたは、12の年に会っとる。それも2人。」と言ってやるつもりです。

 

 けど、かく言うデイプロ騎士団の二人も、壁に穴を穿ち(さらにそれを埋め戻し)、飛行機の通信を傍受し、とただのジェントルマンの枠には到底おさまらないらしい。

 

 こんな子どもたちが、今年は日米あわせて52人だそうだ。世界は広い。そして、でかけていく価値がある。

 娘よ、ここは本当に愉快なところだよ。君も、起きて見にくればよいに。

 

 23日の夜、今年最後の危機がきた。変化をおそれ拒む空気が家の中を支配していた。

 

 やはり明日もあさっても、来年も、どうしたって事態は変わらない、という思いに覆いつくされ、たまらずひとり夜中の石神井川に出た。こういう時、誰かを頼ると、家族との信頼に修復できない傷をこしらえるものだ。携帯は持たずに出た。

 

 コーヒー一杯分の孤独。

 

 どれだけそれを引き延ばしてもいい知恵は浮かばず、結局FPとはここでさようならかと思いながら、みんなが寝ている家に戻った。孤立は何度経験してもつらい。その晩その瞬間も辛かったが、その日予想した未来はいっそう辛く思われた。

 

 気が付くと、デイのお母さんから、連絡が届いていた。最終回を前に、一度だけ言葉にしてくれた、二人からの誘いだった。

 

 ありがとう、ごめん、行けないと無言でさけびながら、もう習慣になっていて目は新しい記事を追う。すると、こんな日にそこでは、宇宙人のかかえる苦労について、お母さんたちが熱心に語り合っていた。・・・その話題に意見を持っている人が、なぜだろう多すぎないか?

 

 笑うにしろ、泣くにしろ、一人で声をあげたのはいつ以来だったろうと思う。これを一人といわないかとも気づく。

 あー、しんど、と声に出して、翌朝の説得の策を講じた。気づけば眠っていた。

 

 説得の成果はといえば、停滞中だ。それ以上でも以下でもない。娘はまだ心にかかるブレーキをはずす一歩が踏み出せていない。家族も変化にしり込みしている。

 

 でも、2019年は、とにかく笑おうと思う。辛いまま笑う。不謹慎ながら笑う。心の底から笑う。どれでもいい。一つで済むわけもない。

 

 だから一年間どんなときも、娘よ、起きろ、起きて笑え、生きろ、そう呼びかけ続ける。

 

 

屋久島ひとり旅2017

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