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  • Erin Stallings

子育てを豊かにする教育のお話「話せば良いのか。離せば良いのか。」

先日ギフティッドサポートグループミーティングでギフティッド教育について話をしました。とっても抽象的です。

ギフティッド教育において目指すべき事や、親が目指すべきこと、子供たちが目指すべきこと。それは、小さな子から、大きい子まで、具体的なことは違いますので、ギフティッドの子育てで必要な概念を参加者にお話しました。

なので、きっと、消化不良でしょう。「実際に何ができるのか」でも、手元のノートには、色々な言葉が残ったはずです。じゃあ、具体的にはどうしたら良いのだろうと。具体的にできることを見極めてアクションを取る必要があります。大切なことをベースに具体的なことを考える種が増えました。

一方で午後は、スライドはほとんど紹介せず、参加者たちの知りたいことや悩みなどの話で、できる限りの具体的なアドバイスをしました。「それが聞けたんでよかったです」「これからやれる事がわかりました」と。

でも、ギフティッドに関して、ギフティッド教育についての話は午前中ほどしていないので、抽象的な言葉というのは頭に残らなかったことでしょう。それより、ノートには具体的にできることが書かれていると思います。もしかしたら、気持ちが晴れたのは、午後かもしれませんが、その具体的なアドバイスが必要な課題などは、もちろん、これからも出続けます。

そういった中で、「感情知性はどうやって育むんですか」という質問を受けました。

まずは、「会話」からでしょう。というのが私の返事でした。それは、親は悩んでいるけど、悩みについて、子供とそこまで課題については話していないということがわかったからです。また、子供の気持ちを聞いていないということがわかりました。結局最後は、「本人と話してみます」と。

快適じゃない会話をするということ。

「離せば良いのか。話せば良いのか。」

実際に会っている時間のコミュニケーションは上部だけであり、本音がSNS上などのコミュニケーションと感じている子も少なくありません。いくらSNS上でのマナーやエチケットなどを教えても、守らない人は出てきます。いくら教え続けてもSNS上のトラブルは無くなりません。

また、対応として、違うクラスにする。違う担任になる。周りをいくら変えても、課題が本人にあるのであれば、同じような問題というのは生じます。

それより、子供たちには「あるべき姿を経験させる」必要があります。

「それしか選択肢がないと追い込まれた時、それ以外にも選択肢があると経験上知っていること」

お互いの方を向いて座る。

膝と膝を突き合わせる。

自分の正直な気持ちを伝えることに徹する。

相手の正直な気持ちを受け取ることに徹する。

お互いに、お互いの耳に届くように徹する。

例えば、エクスプロラーの生徒たちも何度も経験してきています。冒険中で生じた気持ち、数日たっても引っかかっていること。自分の中で、消化できない気持ちがある時、相手に伝える必要がある時、直接会って、話すことを選択します。

言葉はしどろもどろ。

目もしっかり見れない。

頭は下がりがち。

声も小さい。

伝えたいことの半分しか伝えられなかった。

でも、お互いの言葉の受け取り方の誤解や、そういった意図ではなかった。そういった意味でもなかった。でも、自分はこう受け取った、お互いに気持ちを見せ合うことの大切さを経験し続けています。僕らがいうVulnerbility です。あるがままの状態を隠さず見せる。

なので、彼らは高校に行っても、大学に行っても、就職してからも、どのようなコミュニケーションが「あるべき姿」なのか経験をしながら学んでいて、きっと仲間たちにとってインスピレーションになるでしょうし、そういうコミュニケーションが必要となった仲間たちにモラルサポートができることでしょう。

また、過去に、嫌な事をされ、馬鹿にされたのであれば、自分がされて嫌だったこと、絶対に周りにはしないということ。本当の強さは、そういった人にはなりたくない。だから、自分は人に優しくすることを「言葉」でいうのではなく、実際にしていくことでしょう。

「昔、やられたから、今、自分がやってもいい」というのは弱さです。

また、「今度、こうされたら、先生に直接話す」「今度、こう言われても、気にしないようにする」

それは、強さではなく、「対応」です。その機会が訪れてみて、その対応ができるか否かわかるような「対応」を考えているだけです。

真の強さは、そういった未来の機会で試されるわけではありません。今、現在です。

今、現在の行動が、嫌な思いをさせられた相手のような同じことをしているのか否か。また、違った選択をして、嫌ではない、人が喜んでくれるようなことをしているのか否か。現在の機会で、「真の強さ」を見られています。

ただ、その道を選ばなかった時、自分を誤魔化すことはできません。

「本当であれば、それをすることが一番なんだけど」とわかっているはずです。一番の怖さは誤魔化している自分を持ち続けることでしょう。

でも、その同じような「機会」は訪れても、「同じ機会」は2度訪れません。

だから、”Taking the high road”

正々堂々は決して、怖くないわけではないでしょう。

正しい行動をするのは、怖くないわけではないでしょう。でも、誇りに思えることでしょう。

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